2006年7月


2006/7/28(金)          「正露丸」が固有名詞でなかったとは
無知をさらけ出すが、大幸薬品が原告となった正露丸の訴訟で、正露丸が一般的な薬の名称だったことを初めて知った。自分はお腹が大変丈夫なので、実は正露丸を飲んだことがないこともあって、それほど大きな関心がなかったのだが、こんなに種類があるとは。
まあ確かに言われてみれば、軍が作った薬だからね。大幸薬品がオリジナル商品として開発したわけではないのだし。テレビCMで盛んに流れているから、正露丸はラッパのマークが正しい!と思い込んでいる人も大勢居るだろう。私ももしかしたら、他の製薬会社の正露丸を薬局で見ていた可能性があるが、これだけパッケージが似ていると、ぱっと見ただけではわからんね。でも、どこも同じだから全く問題ないし、私が正露丸を飲まなければならない状況というのは、ちょっと考えにくいので、どうでもいいや。

無知さらけ出し2弾。私は2週間前まで「村八分」の残り二分を、冠婚葬祭だと思っていたんだが、違うらしい。火事と葬式だそうで。何年たっても、バカはバカだなあ。

2006/7/27(木)          今度はどんな浴室になるかな

鳥取温泉元湯の丸い浴槽

柱が印象的な外観
元湯温泉:“円い浴槽”残します 半世紀ぶり新築・移転−−今月末から休業 /鳥取
◇年末に営業再開へ
約半世紀にわたって、円い浴槽が入浴客に親しまれている鳥取市末広温泉町の公衆浴場「元湯温泉」が今月末から、新築・移転のため休業する。昭和期の円形浴槽としては県内の銭湯で唯一残っているが、4代目経営者の小谷靖之さん(31)は「円い風呂がうちの名物。日本独特の銭湯の文化と一緒に守っていきたい」と話している。12月中に営業再開の予定。
同浴場は1926(昭和元)年、JR鳥取駅周辺に源泉がある鳥取温泉の湯を使った公衆浴場として、現在地の近くで創業。ナトリウムや硫酸塩、塩化物を多く含み、リウマチや皮膚病などに効能があるとされる。地元の常連客のほか、円形浴槽や昔ながらの番台スタイルなどが県外の銭湯ファンの人気を集め年末年始やお盆、5月の大型連休中などは、多くの客でにぎわう。
 現在の建物は58年、円形浴槽(直径2・1メートル、深さ70センチ)とともに建設されたが、老朽化が進んだため敷地内の駐車場スペースで新築・移転することにした。新浴場には「体を洗う時に、浴槽を囲んで多くの人がおけで湯をくみやすいよう円形になったのでは」(小谷さん)という円形浴槽を残すほか、木の壁やはりを取り入れ、木の香りが楽しめるようにする。
 定年後、多い時で週4〜5回通っているという同市若葉台南5の無職、佐古忠義さん(69)は「お湯もよく、円い湯船にも愛着がある。休業中は家の風呂で我慢するが、再開が楽しみ」と話していた。【田辺佑介】
7月25日朝刊
 (毎日新聞) - 7月27日16時24分更新より引用

鳥取温泉には昨年夏行った。ぎらぎらと太陽が照りつける中、汗だくになりながら、1軒ずつまわったなあ。汗を流しに温泉に入っているのか、汗をかきに入っているのか、しまいにはわからなくなったりしてな。そんな思いまでして入らなくてもいいだろうに、なぜ行くのか。自分でもよくわからん。
さて、記事に書かれている丸い浴槽とは、左写真のようなもの。比較対照が写っていないので大きさがわかりにくいが、5〜6人は入れる大きなものだ。浴室にカランはあるのだが、この浴槽の周囲で体を洗っている人もいて、地域の共同湯の良さを味わえる。タイルをご覧頂けばわかるとおり、確かに年季が入っている。でも、そんなに長いこと使われていた浴槽だとは知らなかった。
年末に新しい建物で営業再開だそうで、楽しみだ。とは言っても我が家からはとても遠く、そう簡単にいける距離ではない。今度私が行く時には、何年か使い込まれた状態の浴室となるだろうが、むしろそのほうが好みだったりするから、それでいいや。

2006/7/26(水)          神道の神様を例えるなら
靖国神社の神様の分祀論などが盛んに出ているようだが、「分祀」という行為と、日本の神道の「神様」の考え方がわかっていないと、話にならない。
どうも世間様が言う「分祀」というのは、靖国神社に祀られている神様の中から、A級戦犯だった人を除けということらしい。しかし、これは分祀にはならない。
昔読んだ本によると、神道に於ける神様というのは、ろうそくの炎のようなものなのだそうだ。1本のろうそくにA、B、C3本のマッチで火をつけた後、Aの分の炎だけを別にすることは不可能。誰かが「ミックスジュースからオレンジだけ取り出せというのと同じ」といっていたが、上手いたとえだなあ。
また、神様は分けることも出来る。あるろうそくの炎を他のろうそくに移しても元の炎の勢いは衰えないし、分けられた炎も同じように燃える。パワーは衰えないのである。こうして日本人は、あちこちに神様を増やしてきた。これが「分祀」の正体である。
分祀を「コピーをどんどん作ること」のように書いている人もいるが、それはちょっと違うように思う。コピーは所詮コピーであって本物ではないのだが、分祀というのは、本当の神様が分かれていくという考え。個人的には、細胞分裂に近いのではないかと。
そんな無茶苦茶な、という声も聞こえそうだが、そもそも宗教というものは非科学的なものだ。宗教は哲学だ。科学ではない。
信仰を全く持たない私であるが、神道の厳かな雰囲気は好きだ。八百万の神様という、目に映るもの全てに神様が宿るという自然信仰的な考えも、共感できるものがある。それにしても、暗闇のろうそくというのは、本当にきれいなものだ。洋の東西を問わず、宗教施設とろうそくというのは、とても似合っている。

2006/7/25(火)          イタコ
7月20日から青森県の恐山で大祭が行われていた。大祭の日にはイタコが集まり、口寄せをしてくれる。
イタコは盲目の女性で、厳しい修行を積んでいる。昔は目が見えない女性は、普通の人と同じように生きていくことが出来ないので、幼い頃からイタコとなるべく修行をしたのだという。修行って、何をするんだろう・・・滝に打たれたりするのだろうか。盲目の職業といえば瞽女さんがあるが、そちらの修行のほうがわかりやすいな。三味線とか、歌とか、所謂芸でしょうから。
今はもう時代が変わって、イタコになる人はいなくなった。瞽女さんも、今も居るのだろうか。

私だったら、誰を口寄せしてもらうだろうか。やはり亡くなった祖母かな。祖母の幽霊だったら出てきても怖くないだろうと思うのだが、この世に未練もないらしく、全く姿を見せる様子がない。口寄せしても、出てこないかもしれない。まー、もっとも私は幽霊とか全く信じていないので、信仰深い祖母に言わせると罰当たりな人間だろう。そんな人間のところには、出てくるわけがない。
でも、一度くらいは口寄せを見てみたいものだ。来年あたり、行ってみようかな。

2006/7/24(月)          潮の香り
潮の香り、なんていうと聞こえはいいが、私は「海くさい」という言葉のほうが、しっくりくる。

大きな川の近くに住んでいる。河口が近いので、満潮になると海水が逆流してきて、海くさくなる。仕事が定時で上がれて家の最寄り駅に降りたつと、匂いが漂っている。本日は2時間ばかり残業したのだが、帰って来た時に匂いは感じられなかった。
川はお世辞にもきれいとはいえない。地方の急流の澄んだ水とは比べ物にならない。川の匂いも、海くささだけではなく、川底にたまった汚泥の匂いなども混じっているかもしれない。
それでも私には、ほっとできる匂いだ。慣れ親しんだ、川の匂い。この匂いを嗅ぐと、仕事が終わって帰宅するという実感が湧いてくる。

2006/7/23(日)          トヨタの今後
セクハラ裁判やらリコール隠しやらレクサスの失敗やらで色々と大変なトヨタであるが、そのトヨタが人件費以外のコストを15%削減することを目標にする!と発表したとかいうニュースを聞いた。検索してみたが、もう既に削除されているらしい。
人件費以外・・・ということは、部品代などと考えればいいのだろうか?それって、ただ単に下請けが更に苦労するという解釈でOKか?トヨタ、本気か?そんなことで、いいのか?
日本の自動車産業の発展は大手だけの功績ではなく、下請けの地道だが確実な仕事があってこそのものだろう。小さな一つ一つの部品の精密さがあって、初めて日本車のクオリティが保てているものだと思っていたが、違うかな。その部品を作っている下請けは、自分のところの従業員と同じくらい大切な存在のはずだ。その下請けへの金をけちるとは。人件費を削るのと同じことではないのか。
ジャストインタイムとかいう方式で、公道を自社の駐車場代わりに使用し、下請けをこき使ってきて、さらに追い討ち。目標はコスト面ばかり。あきれるほどの金権体質になってしまったのだなあ。「人は石垣、人は城」なのに。
目標を、たとえば「燃費の向上」とかいう発想はないんだろうか。技術的な向上を目指すのではなく、コストのことしか考えられないというのは寂しくないか。世界のトヨタの誇りはないのだろうか。なんだかどんどん疑問がわいてくる。
誰だっていつまでもトップを走っていることは出来ない。必ず他の誰かに、明け渡す日が来るはずだ。その日が来るのが、遠い将来なのか、すぐ先の話なのか。全てトヨタ自信の努力にかかっているが、努力する方向を間違えると、大変なことになる。ように思う。

以上、経済のことなんぞ全くわからないパンピーの戯言でした。

2006/7/22(土)          格下げって、なにさ?
浦河の3セク温泉、川の水引き?「銭湯」に格下げへ
北海道浦河町の第3セクターが運営する温泉で、泉源に近くの小川から水を引き込んでいた疑いが持ち上がり、道や町の水質検査で、泉源が温泉の要件となる水温を満たしていないことが判明した。
町は21日に記者会見し、再検査でも要件を満たさなければ「銭湯」にする方針を表明した。
この施設は、乗馬体験施設「うらかわ優駿ビレッジAERU」。約1億5000万円をかけて温泉を掘削し、2001年から「浦河温泉あえるの湯」として営業を始めた。昨年10月、この施設の運営に関わる業者間の札幌地裁での貸金返還訴訟で、温泉の管理を任されていた業者が小川から水を引き込んでいたことを告白した。湧水不足を補うためだったという。
(読売新聞) - 7月22日21時40分更新 より引用


1.5億もかけて温泉掘ってご苦労!しかも枯渇しちゃったみたいだし。もう無理やり温泉掘るの、やめようよ。馬鹿馬鹿しいよ、高い金かけてさ・・・。
深く掘れば熱いお湯が出るのは当たり前で、それだったらただの地下水を沸かしても同じことじゃないの。この温泉に限らず、こういう施設はあちこちにあるが、無理やり堀った温泉には、疑問を感じるものも多くある。あくまでも私基準だけど。
それにしても格下げって言葉が気になった。銭湯は温泉施設よりも格下ですか。確かに銭湯は入湯税は払わなくていいわな。入浴料金は自由に決められなかったりするな。温泉のほうがいいと思っている人も多いな。それでも引っかかる言い回しだなあ。
温泉も好きだけど銭湯も好きな私のような人間からみると、銭湯が温泉よりも格下と言われると、カチンとくる。何を持って格を決めているんでしょうね。温泉施設だって、色々ですよ。
銭湯は水道水だったり地下水だったりするが、この施設ほどオープンにも維持にもお金がかからない。ひたすら地球を傷つけて湧き出た熱いお湯と普通の沸かし湯で、そこまで大それた差は、私にはつけられないですよ。掛流しの温泉にこだわって、お湯を枯渇させてしまうのもどうかなーと思うし。いいお湯に頼りすぎて、客を客とも思わないような施設もあるしね。

2006/7/21(金)          死刑制度
先日テレビを観ていたら、アメリカの死刑制度反対活動グループのレポートをやっていた。このグループはちょっと変わっていて、犯罪の被害者遺族と加害者家族が一緒になってやっているのだ。両者の目的は一致していて、「死刑制度反対」。あちこちでデモを行っているようだ。
死刑囚の家族が反対するのはまだ理解できるが、被害者遺族が反対するというのは、私の理解を超えている。これは宗教の有無から来るものなのだろうか。とても私には理解できない。
番組では触れていなかったが、彼らは死刑を廃止させて、その後どうしろと言っているのか。本来だったら死刑になるはずだった囚人を死刑にしないということは、終身刑ならいいというのだろうか。それとも、条件付で釈放しろと言っているのだろうか。後者はさすがにありえないと思うが、こういう人たちは一つ要求が通ると、次々に新しいことを要求してきそうなので、絶対にないとはいえない。
確かに殺人犯を死刑にしたところで、もう死んでしまった被害者は帰ってこない。でもなあ、だからと言って感情的に割り切れるものでもない。自分の身内が殺されたりしたら、相手を八つ裂きにしてやりたい!つーのが普通でしょ。彼らは博愛主義者で、自分の家族も相手の家族も同じレベルで考えることが出来るのかもしれない。博愛、大変立派なことだと思うが、個人的にはそんな人は好きではない。どこかおかしな人なのではないかと思う。壊れちゃってるというか。
誰も他人の生存権を奪うことはできない、なんて番組の中で言っている人がいたが、死刑囚こそ他人の生存権を奪っているんだぞ。彼らにそれなりの義務を課さなくていいのか。他人の権利を奪ったのだから、自分の権利も剥奪されるというのは、至極まっとうな考え方だと思っているのだが、世界は死刑廃止にむかって進んでいるらしい。
権利の主張ばかりでは、物事は進展しないということが、わかっていない人が増えてきたということか。権利には必ず義務がセットでついてくるはずなのに。

死刑には犯罪の抑止力がある。抑止力について疑問を投げかける人もいるが、私はあると信じている。1人殺しただけなら死刑にならないからやっちゃえ!なんて殺されちゃったりしたらたまったものではない。1人殺したら、必ず死刑。そう決まっていれば、防げる殺人もあるはずだ。勿論七夕の日の日記のようなケースは情状酌量が認められるべきだろうが、凶悪事件は迷う余地無し。
犯罪の抑止力という点で言えば、死刑制度の強化だけでは不十分だ。割れ窓理論を応用して、軽犯罪に重い刑罰を課すのも一つの方法では?万引きしたら即懲役刑。未成年も同様。本を一冊盗んで3年も4年も入れられるとなれば、誰もやらなくなる。つまり全体的に刑罰を重くすればよい。江戸時代にならって、刺青もいいな。軽犯罪だからと甘くしていると、どんどん治安は悪化していく。善良な市民は窃盗やら強盗なんてものには無縁なので、刑罰が重くなったとてあまり関係ないのだし。

アムネスティが死刑廃止制度を働きかけているが、その甲斐あってか、フィリピンで先日死刑制度が廃止となった。フィリピンは昔一度、死刑制度を廃止したことがあるのだが、復活したということは、やむなき事情があったことだろう。今後また凶悪犯罪者が増加しないことを祈る。
ドゥテルテ市長が頑張るだけでは、無理があるからなあ。

2006/7/18(火)          エコな人たちのエリート意識再び
環境保護運動をしている人の中で、本当に真摯に環境問題を考え、活動している人って、どのくらいいるんだろうか。真摯に考えていても、それが誤った情報に流されてしまって、間違った方向に進んでしまっている人も多いように見える。ブラックバス釣り愛好者の「キャッチアンドリリース」みたいに。
政治活動が中心になってしまって、環境保護なんて二の次という団体も多いし、そういう似非のほうがえてして大きくなっていくものだ。緑豆のように。
エコロジーというのは、本当はとても大切な問題のはずだが、どうも胡散臭さが付きまとうのは、こんな似非団体の功罪(妙な政治運動から遠ざける意味で、功績とも言える)だろうな。捕鯨に大反対している緑豆の創設者などは「真実が何かということはどうでもいい。真実が何かと大衆に思わせることが環境保護運動には大切です」などということを堂々と言ってはばからないわけで、これではただの政治運動団体と言われても仕方がないだろう。彼らはエアコンの効いた部屋で環境について考え、移動には豪華設備の船やリムジンを使い、好き勝手なことを言っている。文明的生活をしてはいけないとは言わないが、余剰の金で植林をするとか何かできるはずなのにやらない。言うだけで行動が伴わない、義務を果たさずに権利の主張ばかりしているわけで、そんな団体が信用できるはずもない。しかし政治とは哀しいもので、声の大きい人はそれだけで有利だ。たとえ主張している論理が破綻しているとしても。

私はエコロジーに反対するわけではないが、エコロジストのように何が何でも地球環境を優先する姿勢や、近代化を卑下するような態度や、エコロジストの間にはびこる「エリート意識」が嫌いだ。環境問題に関心をもっているというだけで、普通の生活をしている人たちよりも、精神的に高いステージにいると、この人たちは確実に思っている。自分が高いステージにいると思っている人たちは、当然そうでない人たちを見下す。
先日某音楽家のwebエッセイを読んでいて、そのことを痛感した。その人は南の島に住んでいるのだが、ある日仕事で本州へ来た。立派な空港を利用した。そこには人工の鳥のさえずりが流れていて…云々、莫大な税金をかけてこんなバカなものを作っている人間に笑ってしまった、と〆られている。別にそれは構わない。ただ見逃せないのは、そこにいる人たちはみな悲しそうだったというフレーズが、その文章の中にあるのである。
この傲慢さは、一体どこから来るのだ。何ゆえ、あんたに哀れまれなければならないんだ。その人たちが悲しい生活を送っているって、どこでわかるんだ。その人たち一人一人と、話したこともないくせに。もうね、自然の豊かな場所に住んでいる人のほうが幸せだとか感性が豊かだとか、そういう古くさい思い込みはほんと迷惑。昔はそういう考え方が当たり前というか、正義だった時代もあったけど、今は違うだろ。
その人によって、幸せのありかたは異なる。たとえば私はこの音楽家が生活の基点としている南の島には住めない。私は自分の故郷を離れるのは精神的につらいし、食べ物も合わないだろう。なによりも暑い場所は嫌いだ。この島では、私は幸せになれない。私には排気ガスで汚れた空気と夜でも明るい環境と、適度な騒音がなければ駄目だ。他人がいくら哀れんでも、これが私の幸せのあり方だ。周囲に自然はないが、そのことで悲しい人生は送っていない。
私が生まれ育ったのは高度成長期で、今よりもずっと公害が問題となっていた時代。ドブには得体の知れない不気味な虫が蠢き、黒い排気ガスを吐いて走る車が沢山あった。自然なんてものは電車で遠出しなければなかった場末の工業地帯だったが、それでも私は幸せだったと思う。強がりでも何でもなく。

私は子供の頃からこの音楽家のファンだった。サインしてもらったLP(時代がばれるぜ)も持っている。宝物だと思っている。こういう人になっちゃったんだ・・・と私は悲しんでいるのだが、これでは私も同類だな。
向こうは人工物に囲まれて暮らす私のような人間を哀れみ、私は「そういう人」になってしまったその人を哀れむ。どっちもレベル低いなー。あ、だから私はファンになったのかな。似たようなレベルってことで。無意識の選択って、怖いものだな。

と、ここまでメモ帳に書いておいて、しばらく放置していた。本日久しぶりにその音楽家のサイトを見ていたら、エッセイの部分が丸ごと削除されていた。なんだ、なにがあったんだ。

2006/7/14(金)         面白い時代に生きる
毎日毎日忙しすぎて、やることが間に合わない。久しぶりに、更新なんぞしてみるか。本家の温泉めぐりも、ページになるのを待っている温泉が沢山あるというのに、全く時間がない。どうしてくれよう。

さて、ミサイルが落ちて世間様は色々と騒がしい。このままでは戦争に、などという意見もちらほら聞くが、何を呑気なことを言っているのか。日本はずっと前から、すでに戦争状態にあったではないか。何もドンパチやるばかりが戦争ではない。
しかし兵隊さんがあまり働かなかったり、公然とスパイ活動をしている人もいたりして、ほぼ本土戦の状態。しかもテロリストやゲリラも沢山いて、デジタル空間ではかなり熾烈な戦いが繰り広げられており、連日連夜火花を散らしている。ネット住人の一部は確実に闘っており、かなり見ごたえのあるものとなっている。ペンが必ずしも剣よりも強いとは思わないが、このように効果を発揮してくるのを観察していると、ペンの力もなかなかのものだ。ついこの間、オウムの残党が政治家に接触する機会があったのをあるジャーナリストが見つけ、その外堀をネットユーザー達がどんどん埋めていった事件があったが、大きなマスコミに取り上げられないこのような事例1つをみても、「言論」の力の大きさとバランスがかなり昔とは変わってきたことがわかる。昔はマスコミくらいしか情報の発信はできなかったのだが、今はネットを利用すれば、誰でも参加でき、影響を与えることが出来る。そのかわり、バカは無理だろうが。
しみじみと、いい時代に生まれたものだと思う。自分で情報を取捨選択し、自分で判断を下さねばならない責任は伴うが、情報に対して能動的になった人々が増えてきたのは、悪いことではない。今は時代が悪いと言われるが、これから上向いていくことも可能だし、そう思いたい。

では今が一番面白い時代なのかというと、素直に「そうだ」と言えない部分もある。たとえば、文明開化の時代に生きた人たちなどは、やはり楽しかったろうと思う。どの時代に生きても、それなりに面白いことというのはあるわけで、ベルリンの壁が壊されるのを見た瞬間も「こんなすごい瞬間が見られてよかった」と私は感じた。その頃はデジタルなどは庶民には手の届かないようなもので、未来の自分がこのような作業をしているなんて、夢にも思わなかった。では今よりは確実に情報面で劣っていたと思われるあの頃は、今よりも面白い時代ではなかったかというと、そうではない。
進んでいるうちは、人間はいつでも面白いと思えるだろう。退行しなければならなくなった時に、不幸は始まる。この先私達は、どこまで行くのか。先が見えないが、もし先が見えていたら、焦らないほうが楽しく過ごせる時間が増える。それはわかっているけれど、進まずにはいられないというのが、人間の不幸の一部なのかもしれない。

・・・と書いたところで、読み返してみる。暑さで、頭煮えてるな、自分。ところどころ何書いているかわからん。いい加減に寝るか。

2006/7/8(土)          BOBOSとLOHASにみる精神的エリート意識
BOBOSやLOHASという単語を、聞いたことがあるだろうか?私はどちらも、テレビで知った。ニュース番組の特集みたいなコーナーだった。
LOHASは、「環境にも健康にもベターな生活というものを、継続できる生活スタイル」とその番組では説明していた。実際に「LOHASな生活」を送っているOLのお姉さんの一日を追っていたが、健康のために自転車通勤をしており、週に一度はLOHASな仲間達との勉強会のようなものに出席し、ジムのようなところへ行って簡単なトレーニングをしていた。こんな生活している人って、そんなに珍しいか?勉強会さえ除けば、いくらでもいるでしょ、こんな人。わざわざLOHASというくくりにするのはどうしてか。実際にWikipediaで検索すると、日本の29%がLOHASなんだと。へー、知らなかった。29%といったら、大変な人数だ。だいたいこの調査は、どのように行ったものなのかが、全く不明なのである。
LOHASはアメリカで生まれた概念であり、日本での仕掛人は雑誌「ソトコト」。私は一度も手に取ったことのない雑誌なので知らなかったが、2年ほど前からLOHASに力を入れているようだ。しかし批判も多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/LOHAS
ここに書かれている疑問は当たり前のことばかりで、結局はマーケティングの一環としてやっているにすぎないことがよくわかる。「継続可能な」というのは、本来「地球にとって」のものだったのに、個人レベルの継続可能にすりかえられていたりするあたり、ご都合主義も感じる。健康や地球環境に関心がまったくないわけではないが、それをあまりにも前面に押し出されると辟易してしまう私のような人間にとっては、警戒すべき思想運動のようなものに思える。「私はLOHASな生活をしているの」などという人が居たら、おそらくその人には近づかない。こういうのに踊らされる人というのは、いつぞや流行ったホワイトバンドなども購入してしまうタイプではないだろうか。

で、LOHASだけでもうんざりしていたところへもってきて、今度はBOBOSだと。BOBOSとはフランスで生まれた概念で、「ブルジョア・ボヘミアン」の略なんだそうだ。フーン(棒読み)。
その番組ではBOBOSの特徴として、以下のものを挙げていた。
■都会に生活する、富裕層。経済的には豊かである。
■ブランドものには関心なし。ものがよければ使うが、それが「○○だから」買うということはしない。
■見栄を張らない。
■健康や地球環境の問題に関心が高い。
■自分がよいと思ったものには、惜しみなく消費する。
んだってさ。
そもそもフランスでBOBOSというものが注目されだしたきっかけというのが、少子化に歯止めがかかりそうだから、というのだ。都会に生活するこのような富裕層は、しっかりと子供を生んでいる。裕福な都会人が、子育てというものに新しい楽しみを見出したらしい。そこから発見された(?)のが、BOBOSなんである。
この概念が日本にも入ってきた。当然ながら、マーケティングとしてであって、ライフスタイルとして入ってきたわけではない。そもそもライフスタイルなんてものは自然発生するもので、「こうしよう」と努力して身につけられるものではないだろう。暇な人はできるかもしれないが、忙しい人間には無理な話だ。
BOBOSについてぐぐってみると、「好きなもの MUJI オーガニック野菜  嫌いなもの シャンゼリゼ通り マクドナルド」なんて書いてあるページが引っかかる。なんか、読んでいるだけでムズムズする。嫌いだ、こういうの。虫酸が走る。一見「気取らない私」を売りにしていて、でもお金はあるのよー、環境問題にも関心が高いのよー、駄目よマックなんか食べてるようじゃあ、なんていう女(男も)大嫌い。マックも嫌いだけど。もうこれはね、完全に好き嫌いの問題であって、理屈ではない。私はだめなんだ、こういうの。偽善ぽくて。
文筆業だった頃の田中康夫が「細野晴臣氏のBGMの流れる青山通りだからこその無印良品たりえるのだ」ということを書いていたが、同じようなものをこのBOBOSには感じる。テレビでコメンテーターが「自分が良いと思って使っていたものが有名になって、世間一般の認知度が高まってしまうと、途端にBOBOSは関心をなくしてしまう」といっていたが、それってただのサブカル好きとどこが違うのか。こういう人たちはホワイトバンドは買わないだろうが、「クイーンアリス BOBOS」なんかで不当に高い料理に惜しみなく財布を開きそうだ。

一見全く違いそうなLOHASとBOBOSだが、これらを結びつけるキーワードは「精神的エリート意識が高い」ということだろう。なんつーか、ステージが高い、って感じかな。環境問題に関心があって、実行にうつせる自分というものに、酔っている気がする。BOBOS御用達のあるお店では、油などを量り売りしているのだそうだが、容器を北海道から持ってくる人もいるらしい。勿論何かのついでに寄るのだろうが、それにしても熱心なことだ。でも、こういう人たちのエリート意識をうまくマーケティングにつなげているというのは感心する。
だいたい環境保護運動のようなものや、それに準じたものって、勿論まともなものもあるのだろうが、政治運動に連動しているところが多そうで、ちょっと。なんか私の第六感が、だめだよと言っている。もともと地球が泣いているとか愛とか平和とか、そういう聞いていてくすぐったくなるような言葉を露骨に唱えるような団体は、うさんくさいと思っているので。

ちなみにLOHASクラブ理事の一人は坂本龍一。うさんくささ爆発。

2006/7/7(金)          エアポケット
認知症の86歳母、承諾殺人 54歳長男に3年求刑 京都地裁公判
介護疲れと生活の困窮から合意の上で認知症の母親=当時(86)=を殺害したとして、承諾殺人などの罪に問われた京都市伏見区、母親の長男で無職、片桐康晴被告(54)の論告求刑公判が5日、京都地裁(東尾龍一裁判官)であり、検察側は「犯行は命の尊さへの理解に欠けたもの」として、懲役3年を求刑した。
承諾殺人の最高刑は7年。これまでの公判で、検察側は被告が追いつめられた状況を詳述。片桐被告は「もう一度、母の子に生まれたい」などと述べていた。
論告で検察側は、介護のため会社を辞め、介護と両立できる職を探すなど献身的に母親に尽くしてきたとした上で、「かけがえのない母の命を引き換えに自己の生き方にかたくなになりすぎた」と主張。弁護側は「片桐被告は心の底から母を愛し、最後の最後、母と2人行けるところまで行った。その生き方は道義的には非難できない」と述べ、執行猶予を求めた。
起訴状などによると、片桐被告は介護のために生活が困窮し、心中を決意。今年2月1日早朝、京都市伏見区の桂川河川敷で、合意を得た上で母親の首を手で絞め殺害し、ナイフで自分の首を切りつけ自殺を図ったとされる。(産経新聞) - 7月5日16時13分更新より引用


もうね、今朝仕事を始める前に、たまたまこのニュース見ちゃったので、一日困ったわけです。なにせ、しょっちゅう思い出して、涙、また涙。仕事中だというのに、鼻グスグスいわしてぼろぼろ泣いていたら、周囲だって変に思うだろうし・・・大変だった。
「もう一度母の子に生まれたい」か・・・やさしいお母さんだったんだろうな。この息子も、優しい息子なんだろう。人間は万が一呆けたりしても、その人のもともとの性格の核の部分は温存されるように思う。やさしかった人は呆けても優しく、意地悪だった人は呆けても意地悪い。勿論優しいまま呆けたからといって、問題が軽くなるわけでもない。むしろ、呆けの合間に優しさを見せられると、厳しく接することも出来なくて、辛い可能性だってある。
検索して色々と読んでいたら、この親子の最後の会話が書かれていた。以前週刊誌に載ったものだそうだが、こんなに絶望と愛情に満ちた会話は、ないのではないかと思えるほどだ。裁判は検察も弁護士も裁判官も証人も、涙を見せながらのものだったそうで、殺人事件にもかかわらず3年という求刑を見ても、この事例がいかに悲惨なものであったかを物語っている。執行猶予もつくかもしれないが、以前似たような事例で執行猶予となった途端自殺してしまったというものあり(認知症の妻を殺害した夫が、執行猶予で帰宅した途端「ごめんなさい」と書置きを残して自殺した)、猶予がつくのがいいのか悪いのか、判断が難しいかもしれない。

さて、私は一応働いているので、わずかながら税金を納めている。私の納めた税金がどう使われているのかは、知ることができない。「俺の納めた税金は、全部自衛隊に使え!」と言ったのは横山やすしだが、確かに自分のポリシーに合わない使われ方をされるのなら、わずかな金額でも惜しい(国庫という財布に入ってしまって、自分のお金がまとまって使われるわけないだろ!ということは百も承知なので、突っ込まないように)。
私の納めたわずかな税金が何に使われたのかはわからないが、この親子のような人たちのために使って欲しいと思う。日本は豊かだとは言っても、エアポケットのように、空白地帯が存在するのだ。そしてそれは目立たないし、強い主張をしないため、周囲から忘れられてしまったり、このような悲惨な事態になるまで気づかれない。彼らこそ、本当の意味の「弱者」だ。
あの程度の税金で生意気抜かすな!と言われてしまえばそれまでだが、目的別の納税というのを、一度やってみてはいかがでしょうか、税務署さん。30%は老人福祉に、40%はインフラ整備に、残りは医療分野で、ロケット飛ばす国へのODAには絶対にまわさないでくれ、とかね。国民が何にお金を使ってほしがっているかが、かなり正確にわかると思うので、バイアスかかった意識調査よりも、ずっと確実です。

2006/7/5(水)          検査でGO!


本日はなんと病院で検査を受けていた。大腸の検査なのだが、検査そのものよりも、昨日の食事のほうが大変だった。
腸の中をきれいにしないといけないので、無繊維食というのを食べなければならない。検査の予約をした日に、薬局でレトルトパックの無繊維食を買って帰った。1890円だったかなー、びっくりだ!だって、私の普段の食費よりも高いんだから・・・泣けてくる。かといって、無繊維の食事を作ろうにも、出来ないものなー。仕方がないっす。
箱を開けると、朝食、昼食、夕食と分かれている。これ、順番どおりに食べなければならない。夕食が一番少なめだが、そのとおりにしなければならないのだ。
朝食は一応煮物のおかずがついているが、昼食はクッキーとコーンスープのみ。夕食はお粥と味噌汁だけ。これだけでも1000Cal超えているというのだから驚いた。でも大食いの私には、これだけでは絶対に足りない。仕事にならないことは目に見えていたので、仕事は休んで正解だった。
煮物の味付けなどは結構美味しかったのが救いだった。

そして一日の最後に、強力な下剤を飲む。これがクエン酸とソーダを混ぜたようなもので、レモネードみたいな味がする。お腹の中で水と反応する重曹がパチパチいうのがわかる。その後は悲惨なトイレ通い。まるで腸を洗っているかのよう。

で、今日の検査ですが・・・想像したよりも、ずっと楽でした。右向いたり左向いたりと忙しかったけど。
角度が自由自在に変わる台に乗って撮影するんだが、田宮次郎版「白い巨塔」のオープニングに映っていた機材だ。見た途端、頭の中であの音楽が鳴り響いてしまった。

しかし気になったのが、向きを指導してくれたり撮影してくれたりした、レントゲン技師さん。撮影の間じゅう、ずっと私の横にいるから、X線浴びっぱなし。いくらプロテクター着けているとはいっても、いいんだろうか、あれで?確かにあれしか方法がない(というよりも、早く撮影を終わらせるには一番いい方法。微妙な体の角度などは、人によっては難しかったりするし、耳が遠い人だと聞こえなかったりするだろうし)んだろうが、気の毒だった。もう少し、何とかならないものだろうか。
いくらX線が直進しかしないとは言ってもねえ。どうなんでしょ、その点。もっと軽いタイプの、全身を覆うようなプロテクターが出来ればいいのに。日本の技術力をもってすれば、できるはずだ。でも、作れても着用する側が嫌がるかな。暑苦しい!って。

2006/7/4(火)         中田を好きになれない理由
最近ずっととにかく忙しく、更新もままならない状態なのだが、それでも遊びの予定をそれなりに入れてしまっているので、結局は自分のせい。まあ、私の忙しさなんて、世間様から見ればたかがしれているのだが、なにせ基本がドン臭い人間なもので、人様と同じペースで仕事が出来ないのだ。そうなると自分の時間を削るしかなくなる。これはとろい人間の宿命で、一生の間こういうふうに過ごしていくんだなあと思うと、時間という取り返すことの出来ないものが、本当に大切に思えてくる。

ところで、中田が引退した。先日の日記で「中田が気の毒だ」と書いたばかりだというのに、このタイトルw 中田ほど好き嫌いが分かれるスポーツ選手も居ないのではないかと思うが、私はどうしても好きになれない。
WCでは、確かに気の毒だったと思う。でも、それと好きかどうかは違う。中田は私の嫌いなタイプの人間だ。サッカー選手であってもサラリーマンであっても、好きにはなれなかったろう。
頭もいいそうだし、サッカーの技術もあるだろう。でも全身から匂いたつ、うさんくさい雰囲気は隠せない。中田と同じにおいを発している人間には、若い頃の加山雄三や谷村新司や松山千春などがいる。一見普通の人のように見えて、実はとんでもない野心家で計算高く、自分にものすごい自信を持っている。そのくせ自分をとても「ピュア」な人間に見せかけているというところか。(そういやこの人、ホワイトバンドなんてものにも係わってたな。事務所の仕事とはいえ、ポリシーがあって正しいものを見抜く力があるのなら、あんなものには賛同できないはずだ。それとも、ホワイトバンドがどういうものなのか知った上で、全てわかった上でやったのか。だとすれば、もっとたちが悪い。)
ここまで嫌っておいてなんだが、中田は事業家としては、それなりに成功するように思う。しかし、政治の世界に中途半端に首突っ込んでどうしようもなくなった松山千春のように、後年どうなるかわからない。あやしげな連中が跳梁跋扈する世界で、それなりにやっていけたら大成功だろうが、それは同時に本人のうさんくささを益々周囲に確信させるものとなるので、人間的な評判は落ちていく可能性も大きい。マスコミを上手くコントロールしてやっていかなければならないが、あれだけ日本のマスコミを嫌っているのだから、その点もどうだろうか。
しかし引退後の生活が「自分探しの旅」って・・・まあ自分探しというのは、「一生自分はどうやって食べていくか」という問いであると思うので、中田の場合は間違っちゃいないか。

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